
俺が「坂の上の雲」を読んだことないってことで、ある50手前の男性から「今どきの若者だなあ(=モノを知らねークソ野郎だなあ)」的な哀れむような視線を送られた。
要は馬鹿にされてしまった。
実際、俺はモノを知らないからその評価に間違いはないし、だからこそ悔しくも何ともないのだけれど、その評価基準が、言ってしまえば司馬遼太郎の一作品に過ぎない「坂の上の雲」であることは非常に味わい深いと思った。
「上の世代」には「坂の上の雲」という「教養」がしっかり機能しているのだった。
教養かー。
俺は、「教養」っていう概念が存在した「上の世代」と消え失せた後の「俺らの世代」の間にある断崖をとてもはっきり見ちゃった。
まず話の前提として、教養ってなに?ってことだけど、たぶん教養っていうのは、「知性を持つ者の社会ではこれくらい知っとおかないと会話にならねーからな」っていう知識のこと。
要は、ある階級において要求される前提知識みたいなものかな。
だから、一応は大学が短大や専門学校より「上位」である(とされている)最大の要因は、「教養科目」の存在であったはずだ。
かつては文化的資本の豊富さと社会的地位は比例したのだ。
「文化的資本を持っている=社会的地位が高い=俺ってすげー」という連想ゲームが成り立っていた。
だからこそ、かつての「チューサン階級」の多くは、読みもしない百科事典を「あ」から「を・ん」まで揃えて居間に並べてご満悦だったのであった。
古き良き時代である。
でも、今や文化的資本と社会的地位の比例関係はぶっ壊れ、連想ゲームはとっくのとーに成り立たない。
村上春樹を読んだことがないからといって、誰が恥ずかしがんの。
「おくりびと」を見たことがないからといって、誰に嘲笑されんの。
否、誰も恥ずかしがらないし、嘲笑されることもない。
なぜなら、村上春樹を読んだことがなくても、「おくりびと」を観たことがなくても、その代りにし得る素晴らしい経験はいくらでも存在するっていう共通認識が俺らにはあるからだ。
つまり「上の世代」とは比べ物にならないほど、「俺らの世代」ではいろんな価値観が尊重されるようになったんじゃないかな。
実際、「坂の上の雲」の未読を馬鹿にされた時に俺が思ったことは、「でも、たぶん俺の方がアメリカ文学に多く触れているし、スキーだって俺の方が上手い」ってことだ。
「教養」という概念は今の40歳以上がリタイヤすると共に消えていくのだろうか、それとも社会生活の中で俺らの世代に伝承されていくのだろうか。
俺の肌感覚では、一部の階級を除いては「教養」は消えるんだろうなーと思うけど、「教養」の存在が薄い世の中も、「前提知識ないのかー面倒くさいなー」って感じる。
だからといって、もちろん教養主義みたいのも疲れるし。
そういえば…
別の時に友人から「お前はスラムダンクも読んだことないから根性が曲がっているのだ」という愛に満ちた罵倒を浴びせられた。
嗚呼、ここにも形を変えた「教養」による暴力が…
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