2009年12月31日木曜日

COUNTDOWN JAPAN 09/10


行ってきた。

感想。あと、星の数でどれくらい夢中になれたかを表した。

●フジファブリック<★★★★☆>
ボーカルの志村さんがこの前のクリスマスイブに亡くなった。もはやそのことについて書くことはない。
今日のステージは、過去の映像によるセットリストの再現だった。
ステージ上の照明や楽器の配置が当初予定されていた通りだったのにはやや残酷な印象を受けたが、感動的かつノれる「ライブ」だった。
生で観れなかったのが本当に残念。

●前田博章(DJブース)<★★★★☆>
やべー。DJブースってこういうフェスでは明らかに脇役だろうけど、超楽しい。
クラブと違ってノリが極めてフィジカルだね。
流す曲も聞き覚えのあるJ-ROCKなので、ボルテージが上がりまくって…
疲れすぎてこの後ちょっと寝た。

●トータス松本<★★☆☆☆>
カッコいいね、この人は。
あと、歌上手いなって思った。バカみたいな感想だけどそう思った。
まあ、ウルフルズの方が好きって言う人は多いんじゃないか、ってのは俺の妄想。

●安藤裕子<★★★☆☆>
安藤裕子ってこんなに可愛かったんだーっていうのに気づいた。
キュート系アラサーの正しい佇まいの図。

●ZAZEN BOYS<★★☆☆☆>
パフォーマンスが楽しい。
でもZAZENの音楽って俺にはあまり入ってこないのかもなあ…。

●東京事変<★★★★☆>
今回の一番の目的。
キレイ系アラサーの完璧すぎる佇まいの図。
人多すぎ。大げさじゃなくて身動きがとれなかった。他のステージは閑古鳥じゃね?って心配になるほど大集合してた。
演奏される曲はすべて体に馴染んでいる曲なので、もちろん気持ちいい。が、楽しむ余裕がなかったっていうのが本当。後で映像で見たらすごく良いんだろうな。とか、そんな感じのライブ。
微笑ましいことに、俺の周りにいた女の子達はプチ椎名林檎と化していて、歌声をサラウンドで楽しむことができた。たまに歌詞飛ぶけれど。

●曽我部恵一BAND<★★★★★>
一番楽しかった。
4人のニコニコで、観てるこっちもニコニコ。
本当に音楽好きなんだなあってのが伝わってくると幸せ気分になるよね。
一番小さいステージとは言え、結構デカイ会場だ。そこで小さなライブハウス的な一体感作っちゃうあたりは天才的だと思った。




2009年12月29日火曜日

大掃除に効く佐藤可士和


今日は仕事納めだった。

一年の終わりにデスク周りをスッキリさせたいと思い、『佐藤可士和の超整理術』を読んだ。

いわゆるハウツー本なのかと思って敬遠していたけれど、読んでみたら整理の本質論だった。

そもそも整理とは何のためにするものなのかという点を正しく深く理解することによって、小手先ではない整理が可能になる。

これは一種の目的志向だと思った。


ここに書かれている整理の本質は、佐藤可士和さんのデザインの思想と同義である。

なぜ佐藤可士和さんのデザインがここまで圧倒的に評価されてるのか分からなかったが、これを読んだらその理由がわかった。

目からウロコ系なので、敬遠せずに読んで欲しい本。


以下、俺がラインを引いた部分の抜粋。大掃除に直接役立ちそうな部分は★マークにした。

★ひとつのデザインを生み出すことは、対象をきちんと整理して、本当に大切なもの、すなわち本質を導き出して形にすること…
●僕が行っていることは、“コミュニケーション戦略を総合的に立案し、デザインの力で目に見える形にしていく仕事”なのです。
●発泡酒のマイナスイメージをプラスに転換することを考えました。コクが足りないのではなく、“ライトで爽やかな飲み口”。ビールの廉価版ではなく、“カジュアルに楽しめる現代的な飲み物”というように、発泡酒を捉える視点を転換したのです。決して無理やり導き出したわけではなく、裏を返せばポジティブな見方ができる、ということです。
●自分の作品を作るのではなく、相手の問題を解決する仕事なのです。解決策をかたちにする際にはじめて、デザインというクリエイティブの力を使うわけです。
★整理するには、客観的な視点が不可欠です。対象から離れて冷静に見つめないと、たくさんの要素に優先順位をつけたり、いらないものをバッサリ切り捨てたりすることはできません。
●「斬新だけど違和感が全然ない」とも言われます。これは、ゼロから生み出したものではなく、相手のなかから核心を引き出した結果ゆえでしょう。
★整理することで一番大切なものを見つけ、磨き上げてデザインする。それがうまくいけば、見る人にメッセージを限りなく完璧に伝えることができる。
●個人的な嗜好は置いておいて、この車が持っている本質的な価値に対して素直に向き合ってみようと。家族みんなでどこかへ出かけることは本当はとても幸せな事で、それがすごく素敵に見えるように表現してあげれば良いのではないかと考えたのです。
●なぜこのデザインにしたのかという過程を相手に理路整然と語れるように、自分の思考回路の整理をきっちり行うようにしたら、作品からあいまいな部分がどんどん消えていきました。頭の中に一点の曇りもなくなると、目的がフォーカスされて、ピシッと論理の道筋が通ったのです。すると、相手が疑問を挟む余地のないほど、自分の作品を完璧に説明できるようになった。言い換えれば、作品が完璧に自分のものになったのです。
●ここで語る整理とは、巷にあふれる細々した生活の知恵ではありません。伝えたいことを明確にするという、コミュニケーションの本質に迫るアプローチなのです。
●多くの人は、自分の目の届く限られた範囲内で現実を理解し、あまり疑問をもたず、世の中をシンプルに捉えているのではないかと思います。(中略)現状把握の難しさを認識しないままだと、物事の本質に迫り、筋道を立てて考えてみようとまで思えないでしょう。また、自分で判断ができず、他者の表面的な分析に振り回されてしまう羽目になります。
●どの企業でも、本質的な問題にはなかなか目がいかず、自分たちの商品に誰もが関心があるはずだ、という前提で物事を進めているのです。
●問題の本質を見据えると、新しい視点も見えてくるものです。
●…問題の本質を突き止めるために、情報の因果関係をはっきりさせていきます。これがこうだからこうなる、というふうに関係性を見出し、整合性がとれるように整理していく。そのために不可欠なのが、自分なりの視点を導入することです。バラバラの情報を、ある視点に沿ってつなげていくことで、状況の根源となっている問題の本質が表面に現れてくるのです。
●物事を整理しながらプライオリティをつける訓練を、日頃からぜひ行っておきたいものです。これが経験値として身につけば、必ず仕事の精度が上がるはず…
●“マクロに引いて見る”ことで問題の本質を浮かび上がらせましたが、“反対側から捉えてみる”ということもまた、視点を見つけるうえでの重要なキーワードなのです。
★捨てることは、不安との闘いだと述べましたが、“とりあえず”との闘いでもあるのです。いつ必要になるかわからないものより、今を大事にしたほうが、どれだけ有意義かわかりません。
★…その都度の作業に必要なものだけを置き、作業が終わったら常にしまうことを習慣づけるのです。(中略)板前さんがネタを切って、握って、出し終わったら板場をさっと拭いてきれいにする、あの仕事ぶりのイメージです。
●目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心を持ってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。
●人は自分の心にバリアを張っていて、無意識のうちに外部情報を遮断しています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて戦略的に伝えることを考えないと、受けての心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。
●…“あるべき姿”に到達するためには、不可能ではないけれどもかなりの努力を要します。ブランディングの一環として、社会に対してはっきりとビジョンを提示することで、クライアントもそれに近づくべく切磋琢磨していければ、ひとつの理想形といえるでしょう。
●本質を探るということは、一見、物事の奥深くに入り込んでいくようなイメージがあるでしょう。でも実は、どんどん引いて離れていくことだと思うのです。客観的に見つめてこそ、いままで気づかなかった真実や大事なエッセンスを発見することができる。
●長い間、美術はフレームの中だけの表現を考えていればよかった。キャンバスにどういう絵を描くかを競ってきたのです。ところが、コンセプチュアルアートの出現が、それまでの概念を何もかも覆しました。「フレームの外側も含めて作品だと思えば、中は真っ白でもいいんじゃない?」という考え方です。フレームの外側、つまり置かれている状況も含めて作品だという新たなアプローチ。それは、視点をぐっと引いていくことで生まれたものです。従来のアートを離れて見つめなおすことで、結果的にアートの本質へと迫っていったのです。
●思い込みを捨てるには、あえて極論を考えてみるというのも手です。無謀なほど極端な気持ちになってみないと、自分を捨てることは難しいものです。ですから「そもそもこのプロジェクトは必要ないのではないか?」くらいの思い切った気持ちになれれば、ふっきれて視界が広がってくると思います。
●…「迷ったら具体的なシーンを思い浮かべてみる」ということです。つまり、さまざまなTPOを想定して、自分が取り組んでいる物事をどのように説明するか考えてみるのです。
●“情報”の整理のベクトルは、コミュニケーションの理想形を指し示しているのです。
●漠然とした状態で何となく感じていることでも、秩序だてて整理していくのは、非常に難しいものなのです。それだけに、自分の考えのベースになっている部分をビシッと摑めると、その思考は揺るぎないものになるはずです。
●思考を情報化するために(中略)必要不可欠なのが、“無意識の意識化”というプロセスです。(中略)その際に、いちばん大事なことは、“言語化していくこと”です。
●まずは相手の言うことをまとめる作業から、トレーニングを始めてみてください。相手の思いや考えを客観的に捉え、言葉に置き換えることからやってみるのです。だんだんスキルが上がっていけば、そのうち自分のことも冷静に見つめられるようになってきます。
●…仮説を立てて、恐れず相手にぶつけてみること。相手の言っていることがある程度まとまったら、「それってこういうことですか?」と、自分なりの言葉に置き換えて投げ返してみてください。
●口にしにくいことをあえてぶつけてみるからこそ、問題の本質が浮かび上がってくるのです。(中略)成功したイメージ像やビジョンを語ったうえで、仮説を述べれば、真摯な気持ちからの発言であることが伝わるはずです。
●自分がどこかでリアリティをもって捉えられないと、本当の意味での問題意識が生まれない。
●「他人事を自分事にする」これは思考の整理で非常に大切なポイントです。
●対象をねじ曲げて自分に引き寄せるのではなく、対象と自分との接点に近づいていくことでリアリティが生まれるのです。
●…「どうしてあらゆるジャンルの仕事ができるのですか?」という質問に、「常に対象のなかから本質を引き出しているからアイデアが尽きることがない」と述べました。これにぜひ、「他人事を自分事にできるから」と付け加えたい。…担当するプロジェクトに一見個人的な接点がない場合には、どこに共通項を見出すかを念頭に置きつつ、情報をすくい上げていくのです。
●柳井さんの言葉で印象に残ったもののひとつが「服は服装の部品」。これはつまり、「ユニクロはいわゆる“ファッション・カンパニー”というより、どちらかといえばネジや釘などを売っている東急ハンズのような“パーツ・カンパニー”という感覚なんです」ということ。「組み合わせはお客さんのご自由に」というわけです。(中略)一般的なファッションブランドは、モノというより時代性などの気分を提案しているものが多く、このような考え方のブランドはめったにない。ユニクロは、よりクールなスタンスなんだな、と。気分を押しつけるのではなく、淡々と部品を作っている感覚が、ほかとは全く違うユニークネスだと感じました。
●整理と問題解決は、同じベクトルでつながっている。
●優れた視点が見つかった場合、その視点で要素を並べ替えただけでも、答えになっていることがしばしばあります。
●まずは現時点で材料としてあるものをうまく並べ替えてみることです。新しいものをゼロから生み出そうとするのではなく、目の前のものを的確な視点で組み替えることで、見違えるほど精度が上がるものです。

2009年12月27日日曜日

twitterはなぜ心地いいのか


梅雨ごろからかな。ツイッターをやっているが、これが心地いい。

ツイッターは基本的に「題目」に縛られる事がないのが良い。

この「題目」とは、2ちゃんねるで言えば「スレタイ」、SNSで言えば「コミュニティ」、ブログで言えば「タイトル」、チャットで言えば「チャットルーム」もしくは「チャットの相手」のことだ。

基本的にはツイッターには目的がないんだね。

もちろんツイッターやってる個人にとっては、情報収集やSNSのコミュニティ的な使い方等、それぞれの目的があるかもしれない。

でもツイッター自体は俺らユーザーに目的の枠組みを提供してこない。

まずはみんなが思い思いに「つぶやく」ことによって玉石混交のリソースを作り出し、作り出した大量のリソースの中から「フォロー」や「ハッシュタグ」でユーザー一人ひとりが自分に有用な情報を拾い出す。

つまり、従来のウェブサービスがトップダウン的であったのに対し、ツイッターはボトムアップ的だと言える。


これはきっとウェブの新しいアプローチ。

「玉」も「石」も平等に存在することのできるこのアプローチは、従来はとても目的至上的で殺伐としているか、そうでなければ内輪ノリで気持ちの悪い世界だったネット上に、実社会に近い「暖かさ」を持ち込むことに成功しているのではないかと思う。

俺にとってはこの暖かさが健康的で気持ちいい。

(ツイッターってmixiの「ボイス」と一緒でしょ?と聞かれる事が多いが、「ボイス」は始めにマイミクとして絞り込まれている点でツイッターとは本質的に異なる。この違いは使ってみないと実感が湧かないかもしれない。)


このアプローチはいかにもアメリカの規制制度に似てるな、と思う。

アメリカの産業に対する規制は「事後規制」の考え方に基づいている。

「事後規制」というのは、前もって「あれはダメこれはダメ」って言っちゃうと誰も面白い事やらなくなっちゃうから、何か問題が起きた時点で規制するかどうか決めようぜ、という考え方。

だから、日本だと「プライバシー侵害じゃね?」ってなる「ストリート・ビュー」や、「セキュリティ不安じゃね?」ってなる「クラウドコンピューティング」みたいなおもしろいサービスや考え方が出てくる。


まずは方向性決めずにリソースの量を大量に用意して、そこから要件によって絞り込んでいくっていうのはひとつのコミュニケーションのあり方だと思う。

要は頭柔らかくしようぜってことかもしれない。

2009年12月13日日曜日

教養がないのはクソか


俺が「坂の上の雲」を読んだことないってことで、ある50手前の男性から「今どきの若者だなあ(=モノを知らねークソ野郎だなあ)」的な哀れむような視線を送られた。

要は馬鹿にされてしまった。

実際、俺はモノを知らないからその評価に間違いはないし、だからこそ悔しくも何ともないのだけれど、その評価基準が、言ってしまえば司馬遼太郎の一作品に過ぎない「坂の上の雲」であることは非常に味わい深いと思った。

「上の世代」には「坂の上の雲」という「教養」がしっかり機能しているのだった。

教養かー。

俺は、「教養」っていう概念が存在した「上の世代」と消え失せた後の「俺らの世代」の間にある断崖をとてもはっきり見ちゃった。


まず話の前提として、教養ってなに?ってことだけど、たぶん教養っていうのは、「知性を持つ者の社会ではこれくらい知っとおかないと会話にならねーからな」っていう知識のこと。

要は、ある階級において要求される前提知識みたいなものかな。

だから、一応は大学が短大や専門学校より「上位」である(とされている)最大の要因は、「教養科目」の存在であったはずだ。

かつては文化的資本の豊富さと社会的地位は比例したのだ。

「文化的資本を持っている=社会的地位が高い=俺ってすげー」という連想ゲームが成り立っていた。

だからこそ、かつての「チューサン階級」の多くは、読みもしない百科事典を「あ」から「を・ん」まで揃えて居間に並べてご満悦だったのであった。

古き良き時代である。


でも、今や文化的資本と社会的地位の比例関係はぶっ壊れ、連想ゲームはとっくのとーに成り立たない。

村上春樹を読んだことがないからといって、誰が恥ずかしがんの。

「おくりびと」を見たことがないからといって、誰に嘲笑されんの。

否、誰も恥ずかしがらないし、嘲笑されることもない。

なぜなら、村上春樹を読んだことがなくても、「おくりびと」を観たことがなくても、その代りにし得る素晴らしい経験はいくらでも存在するっていう共通認識が俺らにはあるからだ。

つまり「上の世代」とは比べ物にならないほど、「俺らの世代」ではいろんな価値観が尊重されるようになったんじゃないかな。

実際、「坂の上の雲」の未読を馬鹿にされた時に俺が思ったことは、「でも、たぶん俺の方がアメリカ文学に多く触れているし、スキーだって俺の方が上手い」ってことだ。


「教養」という概念は今の40歳以上がリタイヤすると共に消えていくのだろうか、それとも社会生活の中で俺らの世代に伝承されていくのだろうか。

俺の肌感覚では、一部の階級を除いては「教養」は消えるんだろうなーと思うけど、「教養」の存在が薄い世の中も、「前提知識ないのかー面倒くさいなー」って感じる。

だからといって、もちろん教養主義みたいのも疲れるし。


そういえば…

別の時に友人から「お前はスラムダンクも読んだことないから根性が曲がっているのだ」という愛に満ちた罵倒を浴びせられた。

嗚呼、ここにも形を変えた「教養」による暴力が…